長州から見た池田屋事変

長州から見た池田屋事変

維新を一年ずらした事件。
それが、池田屋事変である。

学者によっては、開国派・攘夷派の主力が撃たれたこの事件により、「維新は一年遅くなった」といいます。
また、別の学者は「桂や久坂がギリギリ抑えていた長州がこれを機会に暴発し、維新が一年早まった」といいます。
個人的には後者を主張したいが、それはさておき、長州からみた池田屋事件をお話しよう。

 

定説では、古高俊太郎という、長州派の武士(薪屋の商人に扮する)が、新撰組によってとらえらられ。拷問により、長州過激派が京を火の海にし、松平容保などの佐幕派を殺害。帝を長州に招いて、遷都。という、恐るべき陰謀を探り当てる。
そして祇園祭の6月5日。会談をする過激派のところに、新撰組が踏み込み、乱闘。
こうして京都大放火は未然に防がれたのである。

 

が、

考えてもらいたい。

 

過激攘夷派といわれるが、桂と吉田はは自重論者。宮部などは松陰の友人であり、確かに過激に見えなくも無いが、当時優れた学者の一人であり、開明派であった。彼らは徳川が専制する貿易と金の流失による極度のインフレ、ならびに異国人がもたらす病気の害を主張している身であり、プロセスは中央政権およびセーフガードに価格統制、という至極全うな政策である。

また、面子を見てもらおう。
特に桂と吉田は、長州藩氏である。
当時の法律では、藩士の処分は藩の権限であり、徳川とてその法を犯すことは出来ない。まして桂はれっきとした譜代の藩士である。(いなかったけれど)
これを討つことは当時、非合法であった。
まして新撰組は、半自治体。という私営の集団であったことを、忘れてはならない。

 

そもそも、拷問で得た情報に信憑性があるのかどうか、どう思われる?
今は強制自白とて裁判では無効になる。
世に伝え聞くほどの拷問で、真に身の潔白を述べても相手が「否」といい、拷問を続けるならば、誰だって相手の望む答えをつむぎ出しはしないだろうか・・・?
その言に、信憑性はあるのだろうか?

またこのときの会合の内容は、つかまった同志である・古高の救出に関するものだという意見が強い。

 

これを統合するならば。

同志が捕まり、その同志の安否を気遣い、助け出す会合のさなか、非合法の無頼が突如押し寄せてきて、善戦するもむなしく討ち死。
そしてその死すら、正しく伝わらず、無頼たちの宣伝材料にされる。

 

実に、浮かばれない話である。

日本の判官贔屓はいいが、あまりにも報われないのではないか?

2008年10月20日|

カテゴリー:JSミュージックブログ

「長州から見た池田屋事変」に関連する記事

ソーシャル

track link JSミュージックブログ あわせて読みたいブログパーツ