長州の肝っ玉お見せし申す

長州の肝っ玉お見せし申す

高杉晋作という男がいる。
長州藩の上士という恵まれた家の待望の嫡男で、病弱。
10を覚えることに生死をさまよったこともある。
また父は実直で知られた官僚であり、晋作自身、世子(次期藩主)の覚えめでたい。という約束された地位を持つ存在であった。

そんな男が、第二次長州征伐の不穏漂う長州で、クーデターを起こした。
80人の決死隊を率い、功山寺から出発。以後快進撃を続け、ついには長州の政権を幕府恭順側から、維新革命派に移行させることに成功したのだ。

高杉がクーデターを起こすにいたるに、さまざまなことがあった。

長州は代々、有能な部下に仕事を任せる風潮であり。毛利藩侯の手は汚さない。そういう風潮があった。いつごろからその兆しがあったかというと、戦国時代の毛利元就亡き後から、と言ってよい。毛利輝元を支えた叔父の両川。江戸時代は幕府の追及をかわすため、輝元は隠居し、一人息子の秀就が藩主となったがやはり、まだ幼かった。結果、輝元が後身人として政務を取り、秀元が執権を握った。
藩主が絶対の権限を持つ薩摩と長州は、ともに維新の立役者となるが、藩内の事情はこのように正反対なのだった。

幕末のこの時期、長州藩侯は「そうせい候」と呼ばれていた。
部下が「殿、これはこうしたらいかがでしょうか」という問いに「そうせい」とうなずくことから、愛着もってあだ名されたのである。(ちなみに東北には「よかろう候」もいる)

ゆえに長州はこのじき、幕府恭順派と、維新革命派が実権を奪い合う事態となるのだ。

しかし、そうせい候あらため敬親は、凡愚ではなかった。
高すぎのクーデターが飛び火し、恭順派の弾圧に屈していたものたちが次々発起した際、その討伐の勅令をもらおうとした恭順派の部下に「討伐ではなく鎮撫にせい」といい、高杉たちが藩主に逆らった無頼になるのを回避している。
また松陰や松下村塾の門人などは、他藩ではまず弾圧の対象であるのだが、そうせい候はしなかった。それだけでなく、松陰のことを始終気にかけていたのはこの藩主なのだ。周布や桂、高杉に井上など、お目見え以上の身分だった人間は、藩主に愛されている存在だったともいえる。

この高杉のクーデターは「功山寺決死隊」と言う。

孤立無援。幕府から命を狙われ、自分が国防のために(※この国は長州のこと)組織した奇兵隊はじめ諸隊を解体される危機のなか、勝算無くも立ち上がることで勝機を得たこのクーデター。

保身しか考えない公家にこのクーデターが、長州の正道を正すためのものであることを主張し、雪明りのまぶしい夜中、馬上高らかに叫んだのだ。

「長州の肝っ玉お見せし申す」

自分ふくめ80人の小さなクーデター。
今までたくさんいた同志のなかで、自分と運命をともにする道を選んだのは、伊藤博文(当時:俊介)だけだった。保守派や日露開戦の時には臆病と揶揄された伊藤であったが、高杉と行動するときが存外、無謀なことをやっていたのだ。

 

クーデターは成功。

そして、日本は維新の夜明けを迎えた。

 

高杉たちが政権を握ることによって、桂が帰還し、行政を確立させる。
そしてあくまで長州が立つと判断するにいたった薩摩は、長州と同盟。食料を得る代わりに武器弾薬を支援し、長州の革命を躍進させた。

この時代、国内の内乱につけこんで、植民地とするのは列強の常套手段であった。
ただでさえ、飢饉、インフレ、金の流出、政治不信などが蔓延するなか、彼らは国防(この場合は日本すべてを指す)のために立ち上がったのである。
佐幕と倒幕。
どちらが正しく、日本人によかったのか、という問いには答えられないが。だが、あのままであったら日本は列強の植民地になっていたのは、歴史的事実なのだ。戊辰戦争が急速に終結したのには、内乱を長引かせ国を弱体化させないため、であり、幕府方の要人の多くが、維新政権で重要な役目を担っていた。

日本の「植民地か、決戦か」という二択は帝国主義時代、何度も何度も突きつけられる選択であったことを、知ってもらいたい。

高杉たちは、一部の身が財を握る、屈辱と貧困の植民地より、国民の団結による国防を選んだのだ。

そしてそれは、ポーランドはじめ滅亡の危機にさらされる国にみられる姿なのである。

それをどうか、わかっていただきたい。

2008年10月21日|

カテゴリー:JSミュージックブログ

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