両川が支えた毛利

両川が支えた毛利

毛利隆元という男を知っているだろうか?
毛利元就の嫡男であり、毛利を支え続けた男である。

だが、父元就よりも先に召されてしまい、彼は家系図には載っていない。

 

隆元は元服前、当時最大勢力を誇り、一時天下人となった大内に人質として山口へいった。
当時の毛利は元就が家禄を継いだときよりかは、大きな勢力となったが、それでもその影響力は「安芸国人で頭一個出ている」くらいでしかない。
「政治は山口にまかしておけ」という言葉はこの時期生まれた言葉であり、京風を愛す大内の殿は、西の京都といわれるほどの繁栄を彼の地に築いていた。

隆元が父の元に戻されるのは、それから6年後の21歳のときである。
人質でありながら、賓客として過ごしてきた隆元は、弟たちとうまくなじめずに苦労したという。
父に「弟たちばかり仲がよくて、私はのけ者です。どうしましょう」と手紙を出していたりもする。
また元就が生涯戒めた酒も大内で覚えてしまい、元就に「酒を過ごすな」という文をもらっていたりする。

筆まめで知られる元就だが、息子も負けず劣らず筆まめなのである。

元就は20で初陣を果たし、その74年の生涯のうち227戦という、実に戦に明け暮れた日々をすごしていた。
そんな元就を支えたのが、奥方である妙玖(みょうきゅう)であり、息子の隆元であった。

毛利は元就も奥方一筋であり(晩年は奥向きの不便さから、継室と側室を得ているが、妻存命中は一筋だった)、また隆元も側室を持たなかった。そしてそれは次男三男にいえることでもあり、親子愛の深さは元就の孫の輝元にも見ることが出来るほど、この一族は家族の情に強い。

妻の死に、元就は隠居を決意する。
だが当時情勢は尼子と大内の勢力が拮抗しており、なおかつ国人として十分な力を持った毛利はその二大勢力に継ぐ勢力を誇り、大内の同盟という立場にあった。
そんな政局で父に隠居されてはたまらない、と隆元は父に「自分では無理です。隠居しないでください!」と直訴。元就の隠居は見合わされた。
同時に家禄も譲られたが、外政特化の元就と内政特化の隆元は、おのおのそれぞれの役割を果たしていたようである。

そして厳島の合戦。

世に有名な、小が大に勝つ、躍進的な合戦である。
この戦は大内を謀反した陶との戦いであり、陶は西国無双と誉れ高い武人であった。また、明智光秀に見てわかるように謀反とは、まず、難しく成功しない。したとしても国力の弱体化は必須であり、この時代空蝉のような領地はすぐにほかの陣営に飲まれる宿命である。
陶はそれを防いだ。外交と結束力で、その空洞化を防いだ。
謀反力(実にいやな力だ。松永あたりが特化していそうなほど)は随一といえるかもしれない。
この厳島の合戦では隆元も前線に赴いていたという。
そして陶と交友があった父に、謀反人である陶を討ち取る大義名分を与えたのは、有名な話だ。

そして尼子との決着のさなか。

隆元は41で、その生涯を終える。

彼の死は、生前よりも死後におおきく移り、毛利に帰参した国人衆などは、隆元の死に不安を感じたという。
事実毛利の内政は隆元の死により一時大きく低迷する。
三男で小早川家に養子にでた隆景が内政を学び、その力を「天下の宰相」といわれるようになるのは、いささか時間を欲した。

 

元就は、はや過ぎる息子の死を、大いにいたんだ。

出家しようとした。

それは、隆元が厳島神社に奉納した書状を読めば、わかるのではないだろうか。

 

『どうか、父を長生きさせてください。

 もし、父に巳歳の災難が降りかかるならば、どうぞこの私を身代わりにおつかいください』

 

元就は厳島神社に奉納されたこの書状を見て、泣き崩れたという。
息子の変わりに長生きしたい親などいるか・・・っ。そう思ったに違いないだろう。
そして隆元の部屋から出ようとしない元就を立ち直らせたのは、孫の輝元であった。「自分の後継をして」と11の輝元が言うまで、元就は早すぎる息子の死を乗り越えられなかったのでる。

2008年10月20日|

カテゴリー:JSミュージックブログ

「両川が支えた毛利」に関連する記事

ソーシャル

track link JSミュージックブログ あわせて読みたいブログパーツ